「余裕があるからだよね。」
先日友人と話していた時に言われた言葉です。
今となっては子育てをしていて感情が乱れかける事すらも季節に一度あるかないかの凪の使い手の私。ひとえに元夫との経験のお陰に他ならず、同居時代と比べたらどんな事が起きようがびくともしない強さは、精神的足腰選手権に出ればちょっと良い所まで勝ち進んで行けるであろう自信があります。
最近、夫や子供の事などで大いに心を乱されてラインやメッセンジャーのチャットで気持ちを吐き出す友達の事で、同じチャット部屋の友人と話していた時の事でした。
自分の期待する形、望むあり方から家族が逸れる事が起き続ける事で、不安や恐れ、フラストレーションの感情に襲われてそれを吐き出しているのだと思うのですが、不安や恐れの感情を持つのは気持ちの良いものではないと思うのです。
人は、他人やもの、つまり自分ではない周りのものに対してのダメ出しをしがちですが、自分のあれこれに対しては他人にする程厳しく評価をし、修正を求め、直らない事を逐一自分に問う人は少数派だと思うんです。
なんなら「自分はこんなにやってるのに。頑張ってるのに」と、むしろ合格点を出してる人も多いのではないでしょうか。
良い自分もダメな自分も受け入れるという事はとても大切です。人間は完璧ではなく(スピリチュアル的には人間は魂を成長させるために生まれてくるので完璧だったらむしろ生まれてくる必要はないわけです)、また一見短所に見える部分は実は長所を長所たらしめる土台を作っているいち要因であったりもします。
そういった視点で考えると、例えば友人が愚痴をこぼす原因の彼女の夫も、夫自身はご自身に合格点を出してる可能性が大だと思うのです。
そう、あの夫が、彼自身に対してです(どの夫だ)。
そして、それで良いのです。あの夫があの夫自身をそのまま丸ごと受けれていて良いのです(だからどの夫だ)。
学年でもトップクラスのポジションを易々とキープし続けるいたずらっ子世にはばかるうちの下の子も、恐らく自分の事について自分は頑張っている、ベストを尽くしていると自負していると思われます。
だから自分にそうすべき同様、家族それぞれのそのままをそれ以上でもそれ以下でもなく理解してそのままを受け入れたら、楽になるんじゃないかなと先述の話をしていた友人に言ったんです。
私は子供達の出来ない事やしない事、反抗や悪態などをそのままの今の子供達として認知します。勿論成長の手助けになるようにするべき指導は母としてしますし、すべきことをしない、出来るべき事が出来ない状態で良い、という事ではありません。
子供であれば、すべき事がまだ出来ない、何故必要かを理解する力がまだ充分に育っていない、心地よい・楽しい事をやめる事や諦める事に対する我慢の心がまだ未熟、または未来に向けて今コツコツとやるという忍耐力または先見の力がまだ育っていない、などが「出来ない・しない・反抗する」の原因なんですよね。
ですからそこの成長度合いを正しく理解する事がまず大前提で、その成長を見守りながら安全に指導を続けていかないとなりません。
私が子供達に、何かしらやりたくない事をするように指示すると、大抵私にとっては好ましくない反応が返って来ます。
そして、しぶしぶ受け入れたとしても動き出すまでに時間もかかりますし、時にはただの悪口を投げつけて来る事もあります。
いずれの場合にしても、私は精神的に距離を置いて子供を観察します。子供達からの言動を自分への刃と認識する事は私サイドでは決してしません。
イメージとしてはコートの外からプレイしている選手を見ている感じです。ボール(悪態や悪口)が目の前を左から右に飛んでいくようなイメージをします。コートの外にいるので私にはボールは飛んでこないので安全です。
そして、あー、今これを楽しんでるからやめたくないんだろうな、それを指示した人(それは私ではあるのですが私の方ではそれが私だと定義しません)に対して嫌悪感が生まれてるんだろうな、とか。
よほど楽しかったんだねぇ。それを辞めなければならないのは確かに残念だよね、その気持ちが抱えきれない状態で爆発してしまってるんだな、とか。
逆に、お、こないだは悪態ついてたのに、今日は行動は遅いものの悪態はついてこないぞ、とか、子供達のそういう所を観察しています。
そうする事で私の気分は乱されないので、冷静に指導をする事が可能となります。
自分も勿論のこと、人間は未熟ですから。少しずつ少しずつ人生かけて成長して行くわけですから。
私は自慢じゃありませんが、子供の頃は忘れ物女王、遅刻女王でした。でも半世紀でようやく忘れ物や遅刻はほぼしないまでに成長しました(パチパチ)。
子供時代に反抗ばかりしていた母親に対しても、今反抗するなどという事はしません(もちろん母も私に何もいわなくなりましたが)。
でも、しなければならないがしたくない事に最後の最後まで手を付けない、という特技は今でも死守しています(笑)。
そうやって子供や夫など、こうして欲しいこうなって欲しいは持っていたとしても、それを今現在のこの瞬間の彼らと結びつけずに将来いつか辿り着くゴールにだけ置いて、今現在はゴールへ続くその道から大きく逸れないように軌道修正をしているという感覚でいたら、自分の気持ちも楽なのではないかな、と。
すると友人は、それは私に余裕があるから出来る事だと言いました。言われてみて確かになぁ…と思いました。
隔週末子供が父親の所に行って居ないのでその間は完全なお一人様の私。仕事以外は完全に自分のしたい事をして過ごせる時間が定期的にある生活(むしろ仕事もしたい事の一つですが)。
精神学・自己啓発・スピリチュアル・量子力学・仏教、そして仕事関係の事について心行くまで学び、また趣味にもたっぷりどっぷりと時間をかけて自分の心を定期的に潤す事が出来ている環境。
子供についての事を文字でやりとりするだけの関係性であるにも関わらず毎度心が恐怖反応を示していた元夫へのそういった感情も、4年経った今は米を研いでももうほとんど水が濁らないくらいに希薄になりました。
私自身も自分の事を責めません。
つまり、私は心が潤った状態で且つ誰からも心の安全を脅かされない生活が今出来ているのです。
不安も恐れも嫉妬も焦りも不快感もほぼ感じる事がありません(たまーに薄っすら感じます)。
余裕・・・ありますよねそりゃ。
その友人の言葉で、今の自分の環境に改めて有難みを感じました。
でも事実、全ては自分の頭の中で起きている事なので、そこをちょっと修正すれば人生は穏やかで平和になるのにと思わずにはいられない、という事だけはこっそりここに書き記しておきます。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
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